Modern Japanese Style 日本の伝統的な西陣の織技で織られた金襴グッズ

 金襴雑貨調進所 賢翠舎 

ランナークロスをはじめ、テーブルセンターやティーマット、タッセルマット、コースターやタペストリー、ボトルカバー海外土産として

百貨店で大人気!!賢翠舎ファブリックは日欧11か国で愛されています。

説明文

金襴のお手入れ方法

お手入れについて
お手入れが出来るんです。しかも簡単に。(人絹製品)正絹(シルク)の場合、着物や帯と同様に糊引きなどが必要になるので専門業者に任せる必要があります。賢翠舎金襴ファブリックは、あえて人絹(化繊)を使っています。
その理由は、ご自宅でお手入れが出来るからです。水、出来ればぬるま湯で手洗い(押し洗い、たたき洗い)します。※洗濯機、乾燥機は不可あとは、絞って干す。人絹は綿などと比べてしわになりにくいので、叩きながらならすだけいい場合もあるほどです。アイロンが必要な場合は、半乾きの状態で裏からアイロンをあててください。半乾きの場合ノースチームでOKです。
裏からアイロンを当てられるように裏地はあえて綿布(紬調の質感ある綿布)を使用しています。房が付いてる製品は、房が乱れる場合があります。
しかし、お手入れは簡単。霧吹きを 2~3 度房に吹きかけて、手で握って慣らすだけ。霧吹きが無い場合は、手を濡らして慣らせばOKです。
(ヤカンの口から出る蒸気でならすとより効果があります。)

金襴とは

金襴とは
「金襴」とは糸に金箔を巻きつけた金糸や、細く切った金箔を織り込み、紋様を顕わした古来中国に起源を持つ伝統的な織物のことをいい、織物の中でも特に豪華で黄金色に輝く豪奢な文様は、数ある布地の中でも最高位に入ります。
日本には、室町時代に中国から渡来し、当時は「織金(しょくきん)」と呼ばれていました。また中国では宋代に禅僧が帝から拝領する錦の袈裟を金襴衣と表しました。日本に輸入した金襴衣に金箔糸が入っていたことから、この織物を「金襴」と称するようになりました。国内で初めて織られたのは室町末期であり、中国人の指導の上、大阪堺で始まったとされています。


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「金襴緞子(きんらんどんす)の帯締めながら花嫁御寮は・・・」
という古い歌にも歌われている通り、金襴は、花嫁衣裳などの特別な衣装や、高僧が身を包む袈裟、その他人形の衣装などに用いられることが昔から多く、京都西陣で織られるようになったのは、江戸時代、文禄元年(1592年)からであり、多くの職人によって改良が続けられ、現在の「西陣織金襴」ができるに至りました。
「金襴」というその名前からは、金を贅沢につかった豪華な織物を思い浮かべるかもしれませんが、西陣では金を使わない「無金物(むきんもの)」と呼ばれる織物も含めて「金襴」と呼んでいます。「わびさびを出した織物」から「豪華絢爛な織物」まで和の神髄を味わうことができるのが、西陣織の金襴なのです。


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また西陣の金襴は、代々、親子にうけつがれ培ってきた文様と多彩な色使いが特徴で、金襴に表現される模様は「シルクロードを経て伝来された正倉院の品々を模倣したもの」、「大名・有名茶人が好んだ名物裂」、「宗教・宗派・階級ごとに決められた紋」などがあり、それらは一朝一夕には真似ができないことが多く、それぞれ用途に合わせた綜絖、色を無数に表現できる糸を染める技術、金糸平箔の製造技術が集積している西陣でしか織ることができないものもあります。


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「金襴」はその絢爛たる美しさゆえに、豪華な帯地をはじめ能装束、表装地、「ひな人形」などの高級人形衣装、お坊さんが身に着ける「袈裟・法衣」、「茶道具・神具・仏具」、「掛け軸」などに使用されています。
※表装裂(ひょうそうぎれ)
表装とは掛け軸の土台になる部分に使われる生地のことで、書物や絵をよりよく見せるために、過度に主張しないわびさびが重視され、本金でも輝きを抑えたものが主流です。


西陣織の歴史

西陣織の歴史
西陣織とは、京都の先染め織物を総称ですが、その源流は5-6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたことに遡ります。
その後飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを、現在の京都市上京区上長者町あたりになる織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。
平安時代も中期以降になるとこうした官営の織物工房は徐々に衰え、織部近くの大舎人町に移り住んだ工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになり、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組んでいました。
室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていましたが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こり、乱が11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりましたが、戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。
※西陣という行政区域は特別にはありませんが、この織物に携る業者がいる地区は、京都市街の北西部、おおよそ、上京区、北区の、南は今出川通、北は北大路通、東は堀川通、西は千本通に囲まれたあたりを指します。


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 大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業の代表と認められるようになりました。
また、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織が可能になったのもこの頃です。こうして紋織による高級絹織物・西陣織の基礎が築かれ、その産地としての西陣が確立されたのです。
その後も自ら中国・明の技術を取り入れるなどしてすぐれた織物を生み出し、いっそう発展を続け、わが国の絹織物業の代表的存在であると同時に、京都を代表する産業になりました。
江戸時代になり、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、西陣の織物は富裕町人の圧倒的な支持を受け元禄~享保年間に最盛期を迎えました。このころ西陣織の二大技法である紋織りと綴れ織りの基礎技法が確立したと言われています。
※現在では、「綴」「経錦」「緯錦」「緞子」「朱珍」「紹巴」「風通」「捩り織」「本しぼ織」「ビロード」「絣織」「紬」の12品目の織り技法が伝統工芸品の指定を受けています。


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しかし、江戸時代も半ばを過ぎると度重なる飢饉で世の中が不安定となり、幕府による奢侈禁止令もあって需要が減少。また、二度の大火にもあい、丹後や桐生など新しい絹織物産地の台頭も痛手となりました。
明治になって首都が東京に移されたことも、京都の街全体の勢いを失わせることになりましたが、昔から、海外の先進技術の導入に積極的であった西陣では、文明開化のチャンスにいち早く呼応し、フランスのリオンなどに人材を派遣し、ジャカード織物などの技術を取り入れて、近代化に成功しました。
大正や昭和にいたって、高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練にも努め、わが国の高級織物業の代名詞としての地位を確かなものとしました。
現在では、西陣織製品の用途の拡大にも取り組み、伝統的な帯地や着物に限らず、ネクタイやショール、和装小物などの材料用としても格調高いすぐれた製品を生産。壁掛けなどいわゆるインテリア用途の製品が、帯地に次ぐ生産額を占めるほどになっているほか、斬新な感覚の洋風着物などの普及にも取り組んでいます。



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西陣織の豆知識①
地元京都市をコースとする全国都道府県対抗女子駅伝では、西陣連合青年会からの「西陣織を全国にPRしたい」という提案に基づき、各都道府県のたすきとゴールテープが2004年の第22回から西陣織製になりました。レース後、たすきは“参加賞”として各都道府県に、ゴールテープは“副賞”として優勝チームに、それぞれ贈られることになりました。

西陣織の豆知識②
14代将軍徳川家茂は京都行きが決まると、妻の和宮に土産は何がよいかと訊ねたところ、和宮は生まれ故郷である京都の名産である西陣織をねだったそうです。しかし家茂は大坂城で亡くなり、和宮には形見となった高価な西陣織が届き、悲しみつつ歌を詠んだそうです。
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
(現世のきらびやかな織物が何になるというの 綾も錦もお見せするあなたがいてこそ価値があるのに)



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上海セレクション

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